好きな日本史のことを人に伝えようと思ったのは4年前から。
子宮頸がんを患ったのがきっかけだった。
肺への転移も見られ医師からは「この状況で助かった人を見たことがない」と告げられた。
目の前が真っ暗になり、「私がいなくなったら子どもはどうなるのだろう」。
寝顔を見ながら泣いて過ごした。そんなとき歴史上の2人の人物が救ってくれた。
1人は20年以上も前に本で読んだ正岡子規だ。子規は脊椎カリエスという難病による
激痛に苦しみながらも文筆活動を続けた。「どんなに苦しくても、生かされている今を
精いっぱい生きようと覚悟を決めていた」。このときから思い煩うことがなくなり、
夜もぐっすり眠れるようになった。もう1人、力を与えてくれたのは吉田松陰だ。
“男子の死に場所は?”という弟子の高杉晋作の質問に松陰は「生きて世の役に
立てると思うのなら生きなさい。命を賭けるほど大事な場面では潔く命を投げ出しなさい。
大切なのはいつ死ぬかではなく生死を超えて果たしたい”志”があるかどうかだ」と答えた。
過去も未来も手放して今を全力に生きた2人に強く共感し、自分に与えられた環境を受け
入れる覚悟ができた。すると不思議なことに入院のための検査で肺にいくつもあった
がん細胞がすべて消えていた。
「志はその人が死んでも次の代にリレーされていく」と話す白駒さんが歴史上のリーダー
として名を挙げるのが蒲生氏郷だ。信長が最も期待を寄せた氏郷は、秀吉の奥州平定後、
伊達政宗の抑えとして会津に転封され、会津の経済発展の基礎を築くと共に目に見えない絆を
家臣との間に紡いでいった。氏郷は病で40歳という若さでこの世を去り、会津にいたのは
わずか4年半だったにもかかわらず、今でも毎年秋には会津で蒲生氏郷祭りが開催され、
会津若松城は、氏郷の幼名・鶴千代にちなんで鶴ヶ城と呼ばれている。
「お金など目に見えるものと絆という目に見えないもの。この両面のバランスが絶妙だったから
氏郷没後400年以上経った今でも、会津の人々から慕われ尊敬されている。
経営者やリーダーに必要なのもこの両者のバランスなのだと思う」と話す。
2014.2.12