2015/01/16

営業とは今日会った人を喜ばせること 日本ガードサービス㈱ 市川善彦氏セミナー

私はダメ社長です。年間130回講演しているということは出社していないということです。

にもかかわらず会社はそれなりに好調で、完全無借金経営です。周囲からお前がやって

いる警備会社というのは寝ていても儲かるのか?と聞かれますが、全然儲かるような

業界ではありません。私が本社を置いている福岡市は人口が155万人ほどいますが、

同業者が278社あります。ちょっと景気が悪くなるとダンピングが横行します。

毎月2、3社が倒産します。しかし2、3社できますから絶対数は変わらず、

いつまで経っても苦しい状況が続くわけです。出社しないダメ社長の会社が

それなりにやっていけるといのは、奇跡のような経営のやり方をしているわけです。

業界は違いますが人を使うという意味ではまったく変わらないので何かご参考に

なればと思います。
 

苦労と不幸の連続から社長になると決意
 

私は、それは話にならないほどの叩き上げです。祖父は35歳で死にました。

私の親父は祖父が35で死んだものですから、2,3歳で親戚をたらい回しにされたそうです。

この父が終戦後、佐世保に帰ってきて、不動産業や建設業で成功し、私が生まれるころには

相当大きな会社に仕上げていました。ところが、金儲けをするとロクなことを考えないもので、

10人もの女をかこい身を滅ぼし会社を倒産させました。私も本妻の子ではありません。

京都の先斗町の愛人に私を産ませました。そこで一生を終えるはずでしたが、佐世保の本妻が

病弱で子どもが産めませんでした。そこで私が見つけ出され引き取られたわけです。このまま

いけば私は大企業の坊ちゃんだったわけですが、ほどなく会社が倒産、親父は夜逃げします。

家も何もかも没収され、六畳一間を借りての生活が始まりました。母は病弱な体に鞭打って

私を高校に入れてくれましたがすぐに死んでしまいました。父は連絡が取れないものですから

葬式にも来ませんでした。私はカネの工面ができずに高校を中退しました。進学校だったから

この先どいつもこいつも一流大学に行く。将来俺はこいつらに顎で使われるようになってしまう。

その時私は社長になることを決意しました。当時、宇津井健のガードマンというテレビに憧れて

同級生が大学を卒業する22歳までに警備会社の社長になることにしました。そして資本金を

貯めるため東京に行こうとアルバイトで片道分の切符代だけ稼いで上京しました。

東京では三畳一間のアパートを借りてそこを起点にして昼間はブリタニカの百科事典を売って

歩き、夜は日本大学の警備員として働くなど朝から晩まで必死で働き資本金を貯めました。

18歳になりましたが、資本金が思うように貯まらない。もう一発勝負しようと思い、カラオケの

リースを始めました。しかし仲介業者が悪質で、機械もカネもすべて持って逃げました。

これまで稼いだお金も洗いざらい全部持っていかれました。もう三畳一間の家賃も払えないので

すべて引き払って上野公園に行きました。そこで自衛隊募集という看板を目にし、

飯が食えると思い入隊しました。衣食住は国家が保障してくれる。

スッテンテンになった私は一円も使わず全部貯金に回しました。

23歳で自衛隊を辞め、福岡で警備会社を立ち上げました。六畳一間を借りて

そこを拠点に営業を始めました。初日から株式会社で始めました。

汗水たらして100%自分のお金でつくった会社です。約2年間は無給でした。

担保がないのでどこもお金を貸してくれません。サラ金でさえ貸してくれませんでした。

 

父親との再会と愛娘の死に”人の道”教えられる
 

そうこうするうちに親父がひょっこりと出てきました。

それはみすぼらしい姿で私の前に現れたのです。

かわいそうに思った私は親父の面倒を見ることにしました。

しかし、親父は私の実印を勝手につくり登記。あちこちでハンコを押し6000万円の

借金を作ってしまいました。本当に頭に来ましたが元々無一文だった私ですから

すぐに諦めました。やがて裁判で争い、すべて差し押さえられてしまいました。

アパートを引き払い、残った布団と枕を背負って10坪の事務所に持ち込み、

そこで生活をしました。ヤクザが毎日取り立てに来ました。やがて飲み食いもせずに

働く私を見てかわいそうだとラーメンをご馳走してくれました。

やがてきれいさっぱり親父の借金を片付けてあげました。そして結婚しました。

苦労した女がいいと思い母子家庭の娘をもらいました。やがて長女に恵まれました。

ようやくオレにもかい家庭ができたと思った矢先、娘が2歳8か月の時に急性心不全で

突然死にました。世の中には神も仏もいないもんだなと思いました。

しかし、火葬場で娘が煙になって上っていくのを見て、私は思い直しました。

娘は人の道を教えてくれたような気がしたんです。私は親父のことをバカヤロー、

死にやがれと思っていましたが、これが間違っていました。親父、俺に試練を

与えてくれてありがとう。感謝するよ。これが人の道だといことについに私は気づきました。

初七日が終わり出社して私は社員に、経営のやり方を根本的に見直し「金儲けをやめる」と

宣言しました。社員からはバカなことを言わないでくださいと言われましたが、聞く耳を

持ちませんでした。そして「君たちのことをひたすらに喜ばせるために生きていく。

次にお客様、取引業者様を徹底的に喜ばせる」。こう宣言しました。

私は高校中退で先生はいませんが、娘が私の先生でした。

 

心に響くプレゼント
 

私の会社は営業会議をしません。娘が死んで以来、営業会議に代わるものとして「お客様を喜ばせる会議」と

いうものをやっています。ある社員が、警備をしている工場の植木を剪定したことが喜ばれ、それがクチコミで

広がり他社から仕事の依頼が舞い込んだこともありました。また、私の会社はお中元・お歳暮はしません。

プレゼント攻勢は逆効果だからです。「こんなの要らないから単価を下げろ」と必ず言われます。

しかし、ある日社員が言いました。「社長、お得意様に一回だけプレゼントをしたいです」。

理由を聞くと「会社には必ず創立記念日があります。そういう記念日にプレゼントを贈りたいんです」と言います。

なぜそういうアイデアがひらめいたのか聞きました。すると社員は言いました。「私がお邪魔している

売上300億円規模の会社があります。同社は先々代がつくった会社です。先々代は先日お亡くなりになり

ましたが、奥様が88歳というご高齢で今も元気に毎日出社されています。飛び込みに営業に行ったとき、

奥様が真正面に座っておられ、手招きをされました。そして言われました。

『君のような青年がペコペコ頭を下げて営業に来るとウチの主人を思い出すのよ。ちょっと話を聞いていきなさい』。

そして、先々代がリアカーを引きながら懸命に仕事をしてきたこと、営業先で殴られて帰ってきたこと、

それでも家族のため、従業員のために負けてたまるかと一生懸命リアカーを引っ張ってこの会社の基礎を

つくってきたことなどを教えてくれました。そして奥様は言いました。『主人は結婚記念日に一輪のカーネーションを

差し出して、ありがとう、君のために頑張れるよと言ってくれたの。私は嬉しくて嬉しくて涙が溢れたの。

どんなダイヤモンドよりも美しかったから』。それを聞いて私は奥様に結婚記念日を教えてもらいました」。

その社員は結婚記念日にポケットマネーからカーネーションの花束を買い、奥様にお届けしました。

奥様はポロポロと涙を流して喜ばれたそうです。そして総務部長を呼び、その場で1億円の仕事を頂戴しました。

本当の話です。
 

営業とは今日会った人を喜ばせること
 

我が社の営業はパンフレットを説明することにあらず、

我が会社の営業は今日会った人を喜ばせることにあります。

私の同業者は市内に278社。他社より安くするからウチに発注をお願いしますという

競合はありますが、我が社はダンピングには付き合いません。心と心がつながって

いれば決して他社に流れることはありません。

これが私の経営のやり方です。

(三重ト協北勢支部セミナーにて)

 

2014.11.12